こんにちは!
涼しい屋内から暑い屋外に出る度に、クーラーへの感謝が溢れる今日この頃です。
自分とはなにか?という事は誰しもが一度は考えるであろうテーマかと思いますが、それに関連する思考実験、スワンプマン(沼男)について考えたいと思います。
スワンプマンって?
ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。
wikipedia スワンプマンより引用
以上がスワンプマンの内容です。
スワンプマンは私なのか?
原子レベルで死んだ男と構造が全く同じで記憶や知識も全て引き継いでいるように見えるというスワンプマン。
もし私がスワンプマンだったとしたらそれに気付かずにそのまま私として生きていく事でしょう。
本当に全てが同一ならば疑う事なく私だと思うのです。例え沼から生まれたとしても。
ですが…なんでしょうか、この心の奥で魚の骨ように引っ掛かる妙な違和感は…。
そもそもスワンプマンが記憶まで引き継いだとしても、私自身は沼で雷に打たれて死んでいるはずなのです。
つまり今この記事を書いている私Aは、私B(スワンプマン)とは別人なのだと思います。
私Bが私Aのように振る舞い、人生を送ったとしてもその人生は私の人生ではなくスワンプマンの人生です。
私の人生は雷に打たれたその時に幕を閉じているのです。
そう考えるとスワンプマンは私に限りなく近いほとんど同じ別人だと思います。
ただスワンプマンはなんの疑いもなく私だと認識して生活し、そして周囲の人々からもスワンプマンが私だと認識される事に(なんと言えば良いのかわかりませんが)得体の知れない恐怖を無意識に感じます。(^^;
この恐怖の魚の骨の正体がわかればスッキリしそうですが、まだモヤっとしますね。
どこでもドアの恐怖
自己同一性などで調べると必ず行き当たる、どこでもドアの理論について。
どこでもドアと言えばドラえもんのひみつ道具の中でもかなりメジャーな道具です。
そのどこでもドアの仕組みを取り上げて作られた物語が『哲学的な何か、あと科学とか』内の記事に書かれています。
(追記2018/4/16…リンク先のページに飛べなくなっておりました。)
このお話ではのび太がどこでもドアに対して私が先ほど上に書いたような不安を抱いていますが、それについてドラえもんが妙に納得出来るような内容でどこでもドアを使えばいいのにと話します。
確かにドラえもんの言う事は尤もです。
一瞬でも時間が経てば私は過去の構造とは別人であるからそれは別人であるというのは、納得したくないけれど確かにその通りのような気がします。
意識の連続性に関して言うと、ドアを通る前ののび太と後ののび太にも意識の連続性があります。その為通った後ののび太は自分がのび太であると信じて疑わないし、周囲の人々もいつもののび太だと思って接しているのです。
なんだかドラえもんの言う事はとても正しいように思えてきます。そしてそれを完全に否定する事は出来ません。
それに対してこの記事の作者は、ドアを通る前ののび太がその後どうなったかを書くことで得体の知れない恐怖の正体を置換してくれました。
ドラえもんという題材を使ってわかりやすく書かれていますが、そのお陰なのか、なんとも怖い話に仕上がってますね(^^;
めっちゃ面白かったですけど。
他にも色々
それは自分とは言えるのか?というテーマの題材は結構あって、私も好きなテーマの1つなんです。
五億年ボタンも本来の視点から少しズラして、五億年過ごした自分とただお金を受け取るだけの自分は本当に同じなのかと考えてみると同じように不安を感じるお話ですね。
私は絶っっっ対に押しませんけどね(^^;ダチョウ倶楽部じゃないですよ。単純に五億年も孤独に生きるなんて嫌ですよ。
こちらは若返る事が出来る機械に老人が入る話です。
老人『本当にこれで若返れるのか?』
男『えぇ。我社の開発したこの機械はあなたの細胞から全盛期だった若い体を生成し、あなたの今の記憶を入れることで記憶はそのままに体だけは若返ることができます。』
老人『そうか…。お願いするよ』
そして老人はベッドに寝かせられシートが被せられた。
それから数時間。
老人(遅いなぁ…いつになったら始まるんだ?)
男『お待たせしました』
若い男『ありがとうございます。 こんなに上手くいくとは…ところでこの古い体はどうするんですか?』
男『こちらで処分いたしますよ。 またのご利用お待ちしております。』
そう言うと男はベッドを焼却施設まで運んで行った。
老人(おぉ。 前の誰かは若返りに成功したようだな。 それにしてもやっと俺の順番か…)
若い男『ありがとうございます』
これは意味がわかると怖い話として、よく見るコピペですけれども、どこでもドアのお話に通じるものがありますね。
実は焼却されるのは依頼した老人だったというなんとも可哀想なオチです。
やはりこの話も依頼した老人と若返った老人は記憶を共有していたとしても全くの他人として描かれています。
他には自分の身体をどこまで他人と入れ替えたら自分ではなくなるのかという話もありますね。
足、腕、内臓などなどありとあらゆる自分自身のパーツを入れ替えていくとして、どこから私ではなくなるのだろう?逆にどこさえあれば私なのだろう?
こんな事を考え出すと何がなんだかわからなくなりますね(^^;
私自身は脳さえ自分の物ならば、自分は自分として認識出来ると思います。しかし周囲からしてみれば全くの別人なわけで…。うーん…(^^;
応援するチームで例えた話
上の話とはちょっと違いますけど、架空のチームを使って例にしてみます。
貴方は生粋の阪神タイガーズファンで、タイガーズの事が好きで好きでたまりません!選手や指導者はもちろんフロントに至るまでそのチームが好きです。
そして貴方は反対にライバルである大正義巨人軍が大嫌いです!!反比例するかの如く何から何まで大嫌いです。
そこで質問です!
1.もしタイガーズと大正義巨人軍がチーム名とユニフォーム、本拠地と各チームのファンはそのままでそれ以外がお互いに入れ替わったとしたら貴方はどちらを応援しますか?
2.もしくはどこまで入れ替わったら貴方はそのチームのファンをやめますか?
このたとえ話も人それぞれ色んな意見がいっぱい出てくる問題です。
まとめ
今日取り上げたいくつかのお話は、有名な話が多く、背筋が冷やっとするお話もありました(^^;
哲学のような感じになりますが、是非みなさんもこの思考実験などを通して自分とは何か?という事について考えて頂けたら幸いです!
コメント